三世坂東彦三郎の帯屋長右衛門 四世岩井半四郎の信濃屋お半
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寛政六年七月、河原崎座上演二番目狂言の「桂川月思出」のお半長右衛門道行の場を描いた作品です。写楽は第二期作品中、大判全身二人立の作を七枚描いていますが、これはそのうちの一図になります。お半長右衛門の道行という常盤津を伴奏としての振事で、その色気のある雰囲気を写楽は描き出そうとしたため、七枚中では最もおだやかな絵となっています。道行の場合、女役に口説きがあって振りが多く、男役はもたれ役といって振りの少ない作品でした。この絵でも長右衛門はじっと立っている姿、お半は振事の一瞬きまった姿をとらえています。あどけないお半の姿態の表現をする半四郎が実に巧みに描かれています。
四代目岩井半四郎は、四世市川団十郎の門に入り、のち岩井家の養子となって四世となった人物です。この人は丸顔であったので俗にお多福半四郎と呼ばれていましたが、その面影は写楽によって的確に描かれています。芸風は華やかで愛嬌があり、写実的でありました。世の人は彼を「目黒(そこに別荘があった)の太夫」または「白金の太夫」とも呼び、天明、寛政時代の一流女形でした。寛政十二年三月、五十四歳で没しました。
三世坂東彦三郎は、八世市村羽左衛門の末っ子で、尾上菊五郎の養子になります。和事実事に長じ、所作事も堪能でその人格も高く「常に野卑なる事を好まず、画をなし茶事を好み」と伝えられています。文化、文政時代に名優といわれたその芸格、人格を写楽は完全にとらえています。文政十一年二月、七十五歳で没。このとき彦三郎は四十一歳でした。
東洲斎写楽(とうしゅうさい しゃらく)
生没年不詳
寛政6年(1794)、浮世絵界に彗星のように登場し、わずか10ヶ月の作家活動の間に140数点もの浮世絵を世に送り出すと忽然と姿を消しました。写楽は大判のしかも背景を高価な黒雲母摺という尋常ならぬデビューを果たしました。版元の蔦屋重三郎は、歌麿が重三郎の専属を離れたのちに大々的に写楽を売り出しましたが、次第に大判が少なくなっていきます。その理由として、写楽の人気役者であろうと美化せずに、ありのままを描きとる筆致は、役者ファンをはじめ当時の人々の好みに合わなかったからなのかもしれません。しかし、どれも躍動感にあふれた役者絵は見る者に強烈なインパクトを与え、海外でも高い評価を得ています
東洲斎写楽選 東洲斎写楽
写楽の作品が重んじられる理由のひとつに、その遺品が少ないということにあります。また残念ながら写楽の芸術を理解し、認識したのは日本ではなく海外が先でした。日本人が彼の作品を認めない間に、多くの作品は海外に流れ、その芸術が絶賛されたのです。昭和18年、海外から持ち帰った松方コレクションが博物館に入り、その数も増した程度であり、こうした限られた少数の作品を復刻したのがこの40作品で、いずれも写楽の大傑作です。
東洲斎写楽(とうしゅうさい しゃらく)
生没年不詳
寛政6年(1794)、浮世絵界に彗星のように登場し、わずか10ヶ月の作家活動の間に140数点もの浮世絵を世に送り出すと忽然と姿を消しました。写楽は大判のしかも背景を高価な黒雲母摺という尋常ならぬデビューを果たしました。版元の蔦屋重三郎は、歌麿が重三郎の専属を離れたのちに大々的に写楽を売り出しましたが、次第に大判が少なくなっていきます。その理由として、写楽の人気役者であろうと美化せずに、ありのままを描きとる筆致は、役者ファンをはじめ当時の人々の好みに合わなかったからなのかもしれません。しかし、どれも躍動感にあふれた役者絵は見る者に強烈なインパクトを与え、海外でも高い評価を得ています
東洲斎写楽選 東洲斎写楽
写楽の作品が重んじられる理由のひとつに、その遺品が少ないということにあります。また残念ながら写楽の芸術を理解し、認識したのは日本ではなく海外が先でした。日本人が彼の作品を認めない間に、多くの作品は海外に流れ、その芸術が絶賛されたのです。昭和18年、海外から持ち帰った松方コレクションが博物館に入り、その数も増した程度であり、こうした限られた少数の作品を復刻したのがこの40作品で、いずれも写楽の大傑作です。
寸法:横21cm×縦31cm
用紙:越前生漉奉書
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