二世大谷鬼次の川島治部五郎
二世大谷鬼次の川島治部五郎
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寛政六年七月、河原崎座上演の「二本松陸奥生長」に登場する敵役、川島治部五郎を描いた作品です。この狂言の四立目富田介太夫を殺すのが川島治部五郎ですが、この場に現れる市川男女蔵の富田兵太郎(介太夫の子)の絵もあり、これは二枚続きの作品となっています。しかし一枚だけでも独立した名画であり、細判中の傑作のひとつとして知られています。画の背色の鼠地は暗夜が示され、その鼠地に対して、着付の濃い灰色(濃緑のもある)と襦袢の紅は、何か陰惨な敵役を現し、頬被りの手拭の白が、いかにも不気味な雰囲気を醸し出しています。右手をあげて兵太郎から顔を隠し、左手でぐっと柄頭を握った形。そして上半身から下肢へかけての力強い彎曲。また衣紋をあらわす描線の力強さ。赤い目隈と青い髭あとに彩られた顔面と横目に睨んだ表情の見事さ。内面的な写実と殺し場という雰囲気が、これ以上には描き得ない極致を見せています。二世大谷鬼次は、三世大谷広次の門人で、永助、春次をへて師の前名鬼次を継ぎました。写楽はこの襲名のときの狂言も描いています。同八年十一月に三十六歳で没しました。
東洲斎写楽(とうしゅうさい しゃらく)
生没年不詳
寛政6年(1794)、浮世絵界に彗星のように登場し、わずか10ヶ月の作家活動の間に140数点もの浮世絵を世に送り出すと忽然と姿を消しました。写楽は大判のしかも背景を高価な黒雲母摺という尋常ならぬデビューを果たしました。版元の蔦屋重三郎は、歌麿が重三郎の専属を離れたのちに大々的に写楽を売り出しましたが、次第に大判が少なくなっていきます。その理由として、写楽の人気役者であろうと美化せずに、ありのままを描きとる筆致は、役者ファンをはじめ当時の人々の好みに合わなかったからなのかもしれません。しかし、どれも躍動感にあふれた役者絵は見る者に強烈なインパクトを与え、海外でも高い評価を得ています
東洲斎写楽選 東洲斎写楽
写楽の作品が重んじられる理由のひとつに、その遺品が少ないということにあります。また残念ながら写楽の芸術を理解し、認識したのは日本ではなく海外が先でした。日本人が彼の作品を認めない間に、多くの作品は海外に流れ、その芸術が絶賛されたのです。昭和18年、海外から持ち帰った松方コレクションが博物館に入り、その数も増した程度であり、こうした限られた少数の作品を復刻したのがこの40作品で、いずれも写楽の大傑作です。
東洲斎写楽(とうしゅうさい しゃらく)
生没年不詳
寛政6年(1794)、浮世絵界に彗星のように登場し、わずか10ヶ月の作家活動の間に140数点もの浮世絵を世に送り出すと忽然と姿を消しました。写楽は大判のしかも背景を高価な黒雲母摺という尋常ならぬデビューを果たしました。版元の蔦屋重三郎は、歌麿が重三郎の専属を離れたのちに大々的に写楽を売り出しましたが、次第に大判が少なくなっていきます。その理由として、写楽の人気役者であろうと美化せずに、ありのままを描きとる筆致は、役者ファンをはじめ当時の人々の好みに合わなかったからなのかもしれません。しかし、どれも躍動感にあふれた役者絵は見る者に強烈なインパクトを与え、海外でも高い評価を得ています
東洲斎写楽選 東洲斎写楽
写楽の作品が重んじられる理由のひとつに、その遺品が少ないということにあります。また残念ながら写楽の芸術を理解し、認識したのは日本ではなく海外が先でした。日本人が彼の作品を認めない間に、多くの作品は海外に流れ、その芸術が絶賛されたのです。昭和18年、海外から持ち帰った松方コレクションが博物館に入り、その数も増した程度であり、こうした限られた少数の作品を復刻したのがこの40作品で、いずれも写楽の大傑作です。
寸法:横21cm×縦31cm
用紙:越前生漉奉書
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